中日会話学院 TEL045-316-0642 代表 鄭 青榮さんが学院生、卒業生を中心に募金を集め、2000年夏中国の甘粛省に建設した希望小学校の落成式参加紀行を筆者の了解を得て華僑報より転載しました。
甘粛僻地の希望小学校訪問体験記1〉

巨漢一馬書記の熱き心遣い  鄭 青榮

真夏の昼下がりは、甘粛の奥地でも暑さは変わらない。ただ、湿度が低いせいか長袖のワイシャツ姿でも汗ばむことは殆んどなかった。「満陳家中日友好希望小学校」の落成式典を無事終えた私に、いよいよ村を離れる時が迫って来た。校門前の沿道にはまた村民たちの人垣ができていた。いつの間にか、乗用車が校門前に差し回されていた。車上の人となった私は、窓越しに彼らにしきりに会釈しながら手を振りつづけた。ある種の達成感と安堵感がこみ上げ、純朴な感じの村人や真新しい校舎や村の景色への名残惜しさがじわじわと心に涌き上がってくる。北京から2,200キロもの旅路を越えて、よくこの村までやって来れたな……、次は何時また来れるかしれない……。私を載せた乗用車が山道を登り、見晴らしのよくなったところで、馬書記は遠ざかる谷合いの学校全景をカメラに収めるよう勧めてくれ、運転手に停車を促した。4台の乗用車が海抜3,000メートルもの山道を疾駆する。途中、馬書記の計らいで、落成式に参列した県政府要員ら全員が車から降りて、段々畑の広がる積石山の景色を背にー一緒に記念写真に収まった。

<少数民族の男性は亭主関白>

180センチの堂々たる巨漢ながら、馬書記は細やかな神経も持ち合わせている。「劉家峡ダム」の渡し場から黄河上流の秘境「炳霊寺石窟」を見物に行かせてもらったときもそうだった。黄河の急流をモーターボートを飛ばし、ときに川の真ん中へ、ときに岸辺近くへと大きく蛇行しながら逆上るのはなかなかスリリングだった。遊覧から戻ると、「モーターボートの乗り心地はどうでしたか?」と馬書記がわたいこ聞くので、「ボートは疾走すると、船体の下腹で波を叩くような衝撃音をしきりと出し、気になったけど、でも爽快で面白かったですよ」と答えると、彼はほっとしたように「あのコースにー番慣れた熟練の操縦士をつけるよう部下に言っておきました・・・・・・」。私の身の安全を気遣って、ちゃんと手を打ってくれたんだ。私はたいへん感激し、驚きもした。そこまで配慮をしてくださるとは。巨体に秘めたこの細やかな心遣い、私はこの22万県民を代表するトップリーダーに深く感謝し、脱帽した。

今回の希望小学校訪問の旅は、正式には蘭州空港から始まり、臨夏市、積石山県、さらに夏河市へとつづく。蘭州市への帰路には再び臨夏市に立ち寄った。全行程を若手の李保崗副書記が責任者として付き添ってくれたが、馬書記は甘粛省長たちとの橋梁架設プロソェクトに関する重要会議の合間にも会いに来てくれた。実は数日ほど前に80歳で亡くなられた母親の葬儀を済ませたばかりだと、馬書記に打ち明けられた私は、さらに驚いてしまった。回族の彼は、40代後半に見えた。ふっくらした顔は浅黒く日焼けし、立派な「普通話」を話した。彼は礼儀正しく、客人を大切にし、落ち着いた物腰の中にも、豪放さと決断力に富み、男惚れするタイプの魅力的な人物だった。連れの次男盛華にもたいへん気を遣い、しきりと留学に来るよう勧めていた。冗談交じりに次男の嫁探しが話題になり、日本文化の中で育った彼は、日本的な女性に憧れているようだと私が話したら、馬書記たち幹部は、異口同音に「ここの少数民族の娘さんだって、日本女性に負けないくらい従順で優しいんですよ」と売り込んできたもんです。馬書記たちは家に帰ると、おおかたの漢族男性とは違って「おーい、お茶!」タイプの亭主関白をやっているんだとはっきり言い切っていた。

この項つづく

<整備中の観光名所「石海」「民俗村」>

 県立招待所へ行く途中、目下まだ整備中の観光名所に案内してくれた。それは積石山ふもとの「石海」「魯班石」そして「民俗村」だった。この山は、その名の示すとおり、斜面も山麓も河川敷も、至るところ大小さまざまな形をした石や岩が無数にゴロゴロと横たわっているのだ。これらの名所は、「大禹治水」や、成語「班門弄斧」で知られる「魯班」の伝説物語に因んでいる。なんと、古代伝説の夏王朝の始祖「大禹」の治水事業はこの眼前に広がる積石山を起点として始められたと言われているのだ。ガイドの人に言われて瞳を凝らして見ると、確かにゴロゴロ横たわる石や岩は山羊の太群に見え、それらが山腹に放牧中の本物の山羊の群れとよくマッチするから、私の目に不思議な景観として映った。西安の「碑林」、昆明郊外の「石林」の向こうを張ってここを「石海」と名付けたそうだが、率直に言ってやや迫力不足な感じは否めない。それはともかく、県内からもっと観光資源を掘り起こし、立派に整備して増収に繋げられたちと願うばかりだ。「民俗村」の方は、当県の主要な少数民族である保安族、サラ族などの風格や特色を生かしたモデル住宅や、蒙古パオに似た民俗小屋、土産品店、噴水池などから成り立っている。付近には養魚池があり、将来の釣堀客を当て込んでいた。夕食のもてなしを受けたそこの民俗小屋で、馬書記たちと中国カラオケで大いに盛り上がろうとは全く予想だにしなかった。

甘粛僻地の希望小学校訪問体験記2

地酒「禹王」の乾杯攻め

照明の薄暗い民俗小屋の中で開かれた夕食会は、地酒「禹王」の「双杯」式乾杯で幕を開けた。禹王は45度の蒸留酒で、「マオタイ酒」や「汾酒」と同じ「烈性酒」だ。
「双杯」とは文字どおり2杯を連続して飲み干す乾杯の仕方だ。3-40代の頃は、アルバイト通訳として中日交流界で、数々の酒席に立ち会ってきた私にとっても、この「双杯」スタイルは初めての体験だった。余談になるが、通訳というと、ただ相手の青葉をドンドン言い換える仕事と思われがちだが、たまにサービス請け負い業みたいなこともする。酒席で乾杯の「スタント・マン」になるのだ。通訳の雇い主があまり飲めない口の人やお年寄りの場合、その人の分を代わって飲み干すというサービスだ。しかし、これは例外的なケースで、いい通訳をやるなら、酒席、宴席では飲酒は禁物だ。分けても、わが中国民間の宴席はアルコール度が高く、酒豪が多いうえ、みな「徹底乾杯」の構えなのだ。平気で相手を酔いつぶすまで飲ませる者が多く、やり方が半端ではない。もちろん、これは歓迎の気持ちや友情をストレートに表現したもので、悪意はない。だが、うっかり調子に乗ってー緒に飲んでいると、しまいに頭の回転が悪くなり、通訳どころか、だんだんロレツすら回らなくなる。さて、目の前にいる少数民族の「兄弟」たちの乾杯攻めに臨んで、これはやるしかない!私は心の中でそう思った。こと少数民族の風習に関しては、素直に受け入れようと最初から覚悟は決めていた。いきなり目の前にお盆が差し出されて来た。幸い、お盆に載せられたミニタイプのワイングラスの容量は5、6C.Cくらいだ。見ると、その上には禹王酒をいっぱいに注いだグラスが4つ並んでいる。一瞬、4杯全部を自分が飲むのかと錯覚してしまった。すぐに、彼我2杯ずつだと気付くと、何食わぬ顔で乾杯を始めた。これはもうー種の儀式みたいなものだ。しかし、馬書記はじめ、7名ほどの「乾杯希望者」がつぎつぎと私を「表敬訪問」に来たときは、少し慌てたし、呆れもした。これではアルコール分解の時間が足りず、悪酔いしてしまうではないか!はてな、酔い潰れるまで飲ませるのが漢族スタイルだが、イスラム系の馬書記たちもその点もしや同じではと、あらぬことを考えているうちに、すでに最後の相手と儀式を済ませていた。「酒菜」の方は、完全にイスラム式みたいだ。ポッキーのようなうどん粉食品、手づかみで食する茹でた骨付き羊肉やワラビなどの山菜の妙め物だ。「麻辣」な味の料理はいくつもあったが、蒸し魚料理のほかは、塩味や醤油味のものがぜんぜん出て来ないのだ。食はいっこうに進まず、空きっ腹に飲み込んだ禹王の存在が不気味になってきた。
そこへ中国で流行中の「超級VCD」カラオケの登場となった。文化省推薦の正統派カラオケのせいなのか、見せられたー覧表には、私に馴染みの曲がたくさん入っていた。嬉しい限りだった。禹王のことは、いつの間にか、頭の中から消えていた。

中国の風格漂う希望小学校の新校舎の1棟
あの山を越せば満陳家村も近い
校門前の坂道に村民400名が並び拍手と楽隊の演奏で熱烈歓迎
落成記念撮影
校庭に集まった大勢の生徒の父兄たち
感謝の言葉を述べる村民代表
木の香り漂う新教室
筆者の肩から胸にかけて掛かっているのはイスラム系民族伝統儀礼で最高の感謝と祝福を表す搭紅
「満陳家中日友好希望小学校」と揮毫する筆者 大勢の前でやや緊張気味
山上からから眺めた満陳家村いえ
帰り道休憩かたがた記念撮影
積石山ふもとの「魯班石」での筆者
積石山ふもとの羊がたくさん放牧されているように見られるといわれる「石海」
歓迎夕食会で陳県長(左)、馬書記らと禹王酒で乾杯い
甘粛僻地の希望小学校訪問体験記3〉

盛り上がったカラオケ

「中華ナツメロ」

馬書記との雑談の中で、祖国の歌曲は大好きだ、特に《草原上昇起不落的太陽》などの少数民族の歌は最高だと話した。あとで気付いたのだが、馬書記は私の好みに沿ってその方面の、そういう傾向のカラオケを用意してくれたようだ。

50年代ごろに大ヒットした《草原上昇起不落的太陽》は、今ではもうすっかり「難忘的老歌」のジャンルに入ってしまったが、大草原に生きる遊牧民族の勇壮で情熱的な性格を端的に表し、強く魅せられる。歌詞のー部に政治宣伝色はあるものの、導入の前奏部分がこれまた雄大な草原をイメージさせてくれ、何回聞いても飽きがこないのだ。
農耕民族の漢族にはない菱古族歌謡特有のエキゾチックな情緒やドラマチックなムードがたまらない。そういえば、かつて文革中に流行ったモンゴル調の《賛歌》もその代表作と言え、いまでも気に入っている。最近ではヒット曲 《蒙古人》 が素晴らしい抒情曲で、蒙古族の魂の強籾な叫びみたいなものを感じる。いっぽう、中央アジア地域のシルクロート沿いに暮らす新疆ウィグル族の歌も蒙古族に勝るとも劣らないほど魅力的だ。ナツーメロ《花児為什mo zhe様紅?》 《送給ni一束沙棗花》 《我愛辺疆山河美》などがいい。
見たところ、馬書記は相当カラオケ慣れしており、次々にリクエストを出して登場した。じつに開放的なりーダーだ。客人の私にもマイクを取るよう盛んに勧めるのだった。彼が何曲も歌った中で、テレビドラマ(三国志・主題曲)がー番印象深かった。私の目には、彼の人物イメージそのものが三国志の武将さながらに見えたせいもある。偉丈夫な馬書記の太いバリトンや振りは豪快だった。この曲の歌詞の中の(・・・・・・是非成敗転頭空、青山依旧在、幾度夕陽紅・・・・・・一壷濁酒喜相蓬、古今多少事都付笑談中)のくだりがとても気に入っている、と彼は得意気に復唱してくれた。言われてみれば、これはたしかに英雄的な気概に溢れ、人生達観の境地を護ったー節だ。
もっとも盛り上がったのは、全員で《歌唱祖国》と《団結就是力量》の2曲を合唱した時だった。全員がー緒になって陽気に力強く歌った。こういう曲が国民愛唱歌としてちゃんとカラオケに収録されているところが、いかにも現在の中国らしい。私はこれまでろくにカラオケをやったこともないが、前記のナツメロ 《草原》《 花児》や《紅梅賛》のほか、88年ごろのヒット曲《鉄窓涙》や《我的中国心》 などを歌った。しまいに日本語の唄を歌ってほしいというので、急いで速記したカンニングベーハーを見ながら、ロシア民謡「ともしび」にチャレンジし、夕食会は大いに盛り上がった。
つくづく若いときに「黄河合唱団」で祖国の唄を習っておいて良かったと思う。わずか数年間の在籍で、しかもあまり熱心に練習しなかった当時の自分だが、数十年後に甘粛の奥地で少数民族の同胞と会いまみえ、彼らとの心の交流に昔おぼえた唄がこんなに役立とうとは夢にも思わなかった!改めて私に数々の祖国の歌を教えてくれた音楽教師の黄偉初先生(現横浜山手中華学校校長)に心から感謝したい。なお、前記のテレビドラマ《三国志(84回シリーズ)》は目下、日本のスカイパーフェクトの「CCTV大富」で放映中なので、橋砲の皆さんにはぜひご鑑賞をお勧めしたい。

甘簾僻地の希畠小学校訪問記4〉

禿げ山退治に苦戦、
「枯れたら又植えるさ !」

その夜は招待所でー泊する手はずになっていた。馬書記と陳県長たちはわざわざ招待所の2階まで送ってくれた。用意してくれた部屋は、見るからに相当古いものだが、次の間つきの広い「套間」だった。見晴らしも良く居心地はさほど悪くはなかった。そういえば、10年ほど前の東北旅行の折り、RV車で原始林に深く分け入って「長白山天池」に出掛けたこ とがある。途中、落石跡のある「要注意箇所」が実に多かったのをいまでも覚えている。
霧の掛かった天池は摩周湖みたいで、素晴らしい景観の湖だった。そのときに泊まったのが延吉市のある招待所だった。これが相当ひどい旅館だった。ゲストハウスとは言っても、設備、衛生、採光、通風、サービスなどいずれをとっても明らかに不合格だった。
いまでも、昔ながらの招待所がまだあちこちに残っているようだ。馬書記はそんな招待所に私たちを泊めるのは気が引けると言っていたが、私には大して気にならなかった。
若いときから招待所は何度も経験ずみだったから。ただ、夏場の大敵は蚊の襲来なので、蚊取線香だけは出発前からハッグに忍ばせておいた。しかしその夜、幸い蚊は現れなかった。禹王酒のお陰で、熟睡することもできた。その招待所も、目下ちょうど改築工事が始まったばかりだと教えられた。きっとつぎの機会に行って見たら、見違えるような近代的ホテルに姿を変えているに違いない。

《高山寒冷乾燥地帯に多民族共生》

積石山は1981年に成立した全国でも珍しい「多民族」自治県。イスラム系の保安、
東郷、撤拉、回の各族のほか、土家族、チベット族が居住している。少数民族は当県全人口22万人のうち、約52%を占める。,農業人口は約96%。主な作物としてトウモロコシ、小麦、ヒマワリ、サンショウなどがある。農民ひとり当りの平均年収は752元に増えているが、貧困人口はなお3万人あまりいるという。
ここはまた新石器時代の「馬家窰」文化の発祥地で、県内から重要文化財の"陶瓮"
が出土している。臨夏に滞在中、馬書記は、ぜひ馬家窰遺跡を見せたいので、あと数日滞在を延ばすように勧めてくれたが、私は日程がきつくて無理ですと言うと、とても残念がった。
標高1,800から4,300メートルの高原地帯に位置する積石山県は、気候的には高山寒冷乾燥地帯に属し、自然環境はたいへんに厳しい地域。平均降雨量も少なく、また雨量の季節変動も激しい。年平均気温は摂氏5,2度である。馬書記は移動の車の中で、緑化にまつわるこんな苦心談をしてくれた。「禿げ山退治にはむろん植樹が必要ですが、苗木の活着率が低いんです。

黄河上流の劉家峡ダム付近。八月三日なのにあたりはヒンヤリとし、遊泳客が休憩につかったテントの支柱だけが川辺に沢山残されている
黄河の急流を遡上して炳霊寺石仏見学に行く途中の景色
炳霊寺最大の摩岩佛
県下約1,200名の公務員には全員ひとり50本植える義務を負わせています。ここー年来、民間の農家などの自発的な植樹と合わせて計10万本は植えたけと、大半は枯れてしまった・・・・・・」たしかに、石海を遊覧したときに目にした光景は物寂しかった。苗木の大半が無残に立ち枯れていたし、小川も涸れて水がまったくなかった。いくら大自然に鈍感な都会人でも、この光景に触れれば、いやおうなしにその厳しさを想像させられる。8月はじめの横石山は避暑地のように大変しのぎよいのだが………。そこで馬書記はこう続けた「まあ、9月になって雨が降るようになったら、また植樹をやり直すさ」と。穏やかなあっさりした言葉遣いだったが、強い決意が感じ取れた。そういえば、蘭州から臨夏へ行く途中も禿げ山が多く、ふもと辺りにまばらに自生する丈の短い草以外は何も生えていない。色合いと言い、質感と言い、まるでラクダの背中のような山々だった。そんな禿げ山の苗木に揚水ポンプで水まきをしている光景がとても印象的だった。

この項つづく

甘粛僻地の希望小学訪問記5〉

交通整頓いまだ成らず  りりししい上海警察官の交通指揮には安堵

ことわが国の交通秩序の問題に関しては、率直に言って私は大いに不満です。30年近く期待をもって観察してきたが、進歩が遅すぎるのだ。近代中国建国の父――孫中山先生は「革命いまだ成らず,同志諸君の更なる努力が必要だ」との遺言を書き残されておりますが、それを模倣して私も僭越ながら「中国の交通事情は乱雑にして、整頓いまだ成らず。官民各界、同胞各位のたゆまぬ努力が必要だ」と敢えてここでまず申し上げたい。

蘭州空港から臨夏市内のホテルまでは、距離にして約300キロの道程だ。それを上海大衆車「サンタナ」に乗って約4時間で走り抜けた。途中で3回ほど小休止して記念写真を撮ったりした。郊外の自動車道に入ると、車も少なく、時速100キロのスピードで飛ばすこともしばしばだった。ところどころで小さな町を通り過ぎた。町には半円形の白帽子をかぶったイスラム系の住民の姿が目立った。そんな町にはきまって中国風のモスク「清真大寺」が建っていた。その白と黄金色の見事な配色の絢欄豪華な外観が人目を引く。雑然として見すぼらしい町並に比べて、モスクだけが立派すぎる感じだった。彼らの暮らしの中に根を張る宗教の重みが感じられる。
高原の山間を縫うように走る自動車道は立派に舗装された区間も少なくなかった。道路沿線の大看板の標語から交通インフラ整備が重視されているのがわかる。通行車両はタンクローリー、トラックやオート三輪などの輸送用車両が主で、荷台を見ると、コンクリート製電柱、化学肥料などが山と積まれている。途中、崖に沿ってその下に作られた道路区間にいくつも出くわした。道幅は狭く、未舗装なうえ、ガードレールも無い。曲がりくねった崖沿いのあちこちには落石が散乱したまま放置されている。さまざまな岩石がゴロゴロ横たわっていて、いささか不気味だ。臨夏から積石山県へ向かったときも、そういう落石箇所にぶつかった。幸い運転手が土地カンのある熟練の人だったので事無きを得たが、いま思い出してもヒヤッとする場面はあった。

車道はさまざまな「物体」に占用されている。山羊、牛、にわとりなどの家畜が常連
だ。それに時折、子供などの住民が横から飛び出して来る。村道はいわば「多目的道路」で、通行車は麦の脱穀にー役買っている。刈り取った小麦は農家の手で路面にうず高く積み上げられ、その上を車玲輪が転がって行く。私達を乗せた県の公用車も、道すがら何度もそんな「勤労奉仕」に参加していた。

大都市の交通渋滞はー段とひどくなっている感じだ。車の増加がそれに拍車をかけて
いる。歩行者の信号無視、横断歩道無視は日常茶飯事だ。自転車や自動車の割り込みなどルール違反が目立つ。秩序乱雑な「交通地獄」のそんな中でも、交通整理にたずさわる「老人部隊」の活躍は光っていた。彼らの姿は大都会の繁華街の大きな交差点で容易に見付けることができる。手に持つ長さ2メートルもの棹の先端には、赤い布切れが垂れ下がっている。赤信号に変わると、棹は路上に勢い良く振り下ろされ、車をせき止める。そこを歩行者が安心して横断して行く。「街道居民委員会」が組織したボランティアであろうか、定年後の彼ら(女性の場合も多い)は、道絡交通の番人として、社会奉仕に参加している。今回の訪問地―北京、蘭州、西安、上海の四都市では、上海が一番交通ルールが守られている感じだ。偉丈夫でりりしい交通警察官を交差点で何名も目撃した。人も車も彼らの指揮にはおとなしく従った。交差点に陣取る上海の交通ボランナィァも気合が入っていた。信号を無視する歩行者には笛を吹き鳴らし、大声で怒鳴りつけていたものだ。それでも交通事故は絶えないようだ。上海滞在の僅か数日中に自転車と乗用車の接触事故の現場に私は何度も居合わせた。

オリンピックの中国開催はさほど遠い将来のことではないと期待されている。いっぽう、交通乱雑ゆえに事故多発を心配する向きも少なくない。ある人は「オリンピック開
催期間中、警察機動隊や交通警察を大量に投入し、交通規制を強化すれば、交通秩序は大丈夫だよ!」などと言って胸を張るが、私は感心しない。これは「官」の発想で、
「民」を無視している。なぜ乱雑がー向によくならないのか、病因にメスを人れ、オリ
ンピック開催までに根治するのが本筋だと思う。やはり、歩行者もドライバーも一人一
人が交通ルールをよく守る良き市民であってほしいのです。オリンピック開催を目標に
わが中国の民度をもっともっとアップさせることは「精神文明建設」の大切な中身のひ
とつではないでしょうか。
(つづく)

甘粛僻地の希望小学訪問記〉 6 鄭青榮

"奥の細道"を情報ハイウェーに変えよう
中国基礎教育の充実に華僑の協力を!

本稿も最終回を迎えました。今回は甘粛紀行というよりも、私にとっての「今日中国」を感じるままにいくつか書いてみます。
甘粛・積石山ロードま「遥かなる旅路」だという言い方をしてきたが、それは祖国の大西部が経済開発から取り残されてきたせいもある。しかし、こうした旅行困難な「奥の細道」でも時が経つにつれ、必ずや開かれた太い「物流の道」、「観光の道」、「情報の道」、そして「文明開化の道」へと姿を変えて行くことでしょつ。なぜなら、世界的に見れば、世は間違いなくITハイウェー時代に突入しているからです。 ハイテクによって、民族の壁国境や省・県の境界線は簡単に乗り越えられ、情報は瞬時に世界を駆け巡り、奥地へ入り込む。インターネットの力によって、地球はますます狭いものになっている。遥かなる「五太洲」同士か、「 一衣帯水」の近隣になりつつあるとさえ言える。
「故郷(祖国)は遠くに在りて思うもの」とはよく言われてきた。これを聞くと、人はある種の感傷や旅情を呼び起こされるものだが、今はだいぶ様変わりしているようだ。
身近な例をひとつ挙げると、海外華僑が中秋節などに、祖国の親戚から気軽な挨拶の電話がかかって来る時代になってきた。私などの場合も、今年のその夜、海の向こうにいる従弟の電話に眠りを破られた。受話器に耳を当てて聞くと、彼の楽しそうなお喋りが流れて来るではないか!愛用のケイタイ電話を使って私に祝日の挨拶こ酒蕗込んだようだ。自宅のベランダに食卓を出してご馳走を並へ、月見をしながら団欒する幸せそうな彼のー家の姿が目に浮んでくる。でも、彼の話の口調は明らかに、あっけらかんとしたものだった。音ながらの「但願人長久、千里共嬋娟」という中国情緒たっぷりの深い思いや切なる願いとはだいぶ趣きが違う。いまは企業経営者となり、だいぶ裕福になったが、昔は私の両親が人づてや銀行送金を通じて彼の家計を助けてあげていたものだ。電話はその恩返しの意味もあるようだ。
近年、華僑の現地化傾向を指して「落葉帰根」から「落地生根」に変遷したなどとよく言われている。しかし、よく考えて見ると、地球一体化へと突き進むこのご時勢においては、そうした華僑の生き方の変遷も取り立てて言う程の意味はあまりない、と私は思う。根はどこの国に生やしていても、地上に伸ばした樹幹や枝葉はみな地球という「大きな森」のー部なのだ。IT革命のお陰で、この巨大な森に咲いた花は、たとえ小さくとも遥か万里の遠くまで薫り、花粉は地球の裏側まで飛んで行ける時代になった。
そうした意味において、横浜と甘粛、日本関東と中国大西部の距離感はますます縮まっている。
時あたかも中国大西部開発の時代に入りつつある。中国政府は長期の重要施策としてこの方針を強く打ち出している。大西部の民百姓はまさに、千載一遇の天の時を得たのだ。豊富な天然資源に加えて、さらに人の和を作りあげさえすれば、この偉業は必ずやなし遂げられよう。そうなれば、わが中国に史上最高レベルの「太平盛世」が出現し、民百姓は「安居楽業」の我が世の春を謳歌することができよう。これは世界人類にとってもたいへんに良いことだ。成敗のかなめとなる「人の和」の構築には、中国東部沿海地域ばかりでなく、先進諸国官民各界の投資や技術協力、それに各方面の力量をもつ海外華僑の参加が強く期待されている。「衣食足りて、礼節を知る」とは言い古されてきた諺だが、21世紀を目前にしたいまは、一歩進めて「衣食足りて、ボランティアを知る」ではないでしょうか?「勤労致富」を達成した海外華僑華人が、居住国の地域社会で共生努力を重ねることは無論重要だが、いっぽうで目を祖国に向け、開発の恩恵が届きにくい奥地や忘れられがちな少数民族地区に思いを馳せ、そこの基礎教育事業などの手助けをするのも、「また楽しからずや」だと思います。この中国希望工程プロジェクトへの協力は、心ある海外華僑華人とっては、わりと手軽に参加できるたいへん有意義なボランティア活動のーつであると思います。
今回私が訪れた甘粛省積石山県では、小学就学適齢児童の入学率は86.5%であと約2,500名もの児童がまだ就学できていません。学費と諸雑費を合わせて生徒ひとり当たり年間日本円で1,300円ほどの出費ですが、これが貧困家庭では負切れないのが現状です。また、県下の学校校舎全体の約25%は老朽化した危険校舎です。
橋胞の皆さん!いまこそボランティア精神を発揮し、「愛心」を捧げることを通じて祖国同胞との絆を強めて行きましょう。そして、わが祖国の汲めども尽きぬ素晴らし文化の本流の中から多くの優れたものを学んで行きましょつ。周囲の日本の人達にもびかけて、中国の希望小学校建設募金運動に奮って参加しましょつ。私は微力ながら仲間とともに、今後も息長く祖国の希望工程プロジェクトを支援して参りたいと思いす。なにとぞ僑胞の皆さのご理解とご協力を心からお願い致します。(終)