横浜華僑通訊

最新2020年8月号より抜粋

国慶節祝賀行事のお知らせ

7月16日開催された横浜華僑総会全体理事会において、2020年第71回中華人民共和国成立71周年国慶節の祝賀行事への審議がなされ、次の決定がなされた。

国慶募金活動:
今年は見合わせることにしました。
国慶ポスター:
制作を見合わせるので、各店舗などへの配布はありません。
国慶横断幕:
各牌楼などへの掲出を見合わせます。
国旗掲揚:
国慶節当日本会事務所のある中華大廈では掲揚しますが、総会事務局より中華街各店舗への掲揚依頼は差し控えます。
国慶節祝宴:
例年通りの祝宴は開催を見合わせますが、本会理事と協力団体代表らによる国慶懇親会を計画しています。
国慶パレード:
開催を見合わせます。
国慶採青:
実施予定の方向で準備を行い、情勢により開催を見合わせます。

この秋、われわれは祖国の71回目の国慶節と中日国交正常化48周年を迎えます。昨年、横浜華僑総会は広範な僑胞と日本の友人とともに建国70周年の大慶を盛大にお祝いしました。今年は大勢の人が集まりお祝い行事を行うことができませんが、我々の心は常に祖国とともにあります。
ぜひみなさんの心の中で熱烈に今年の国慶節をお祝いしましょう。

新事務局長就任のお知らせ

拝啓
向暑の候 皆さまにおかれましては益々ご清祥のことと謹んでお慶び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。
さて、当会羅明珠事務局長は去る六月末日をもって定年を迎え、この度円満に退職をされました。その後任には谷口水生新事務局長が就任いたしましたことをお知らせいたします。
谷口新事務局長は横浜山手中華学校第35届の卒業生で、中日両国語に精通し、かつて短期でしたが横浜華僑総会に在職した経歴があります。
横浜華僑総会では、今年4月より谷口氏を職員として迎え、7月には事務局の体制を再構築しこれを機に同氏を事務局長に任命いたしました。今後は事務局の李悦局員とともに、この両名が手を携え横浜華僑総会の日常業務を担うこととなります。
皆さまにおかれましては今まで同様のご厚情を賜りますようお願い申し上げますとともに、まずは書中をもってごあいさつに代えさせていただきます。
横浜華僑総会 会長 王忠福
2020年7月吉日

校友会各届代表大会 開催

横浜中華学校校友会各届代表大会は7月11日(土)ZOOMでのオンラインで委任状を含め、186名で開催された。
潘永誠会長の「今年の校友聯歓会及び校友会バスケ部OB・OG会、校友会卓球部OB・OG会はコロナウイルスの影響で残念ながら、開催を中止とさせていただきますが、来年の70周年に向けて、校友会をさらに盛り上げていきたいと考えております。校友生の皆様には、引き続きご支援ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。
みなさまのますますのご発展とさらなるご活躍を心より祈念いたします」とのあいさつに続き、会務報告、決算報告が行われ、新理監事が選出された。(校友会)

廣東同郷会会員大会開催

(一社)廣東同郷会(陸煥鑫会長)は7月11日午後6時、同会会館会議室にて2020年度の定期会員大会(社員総会)を開催した。
新型コロナウイルスの感染拡大防止の見地から、今年度の会員大会従前とは違う形式での変則開催となった。
会員には委任状による参加を呼び掛け、会員総数312名に対し、当日までに222通の委任状が届き、当日は理事9名が出席、委任状を含み過半数の出席を得て大会は成立した。
大会の議長に朱銘江氏を選出し議事は予定通りに進行し、会計決算、公益目的支出計画実施報告、会務計画・予算報告などは原案通りに通過した。(廣東同郷会)

粤港澳大湾区参観旅行記(二)
横浜華僑総会 理事 楊仕元

11月11日は翠亨新区へと向かい、翠亨新区規画館に案内されました。ここは中山市東部臨海区域にあり、粤港澳大ベイエリアの地理的中心となる総規画面積230平方キロに達する開発最中の町であります。この新区には、グリーン装備製造、AI電子産業、健康・医薬産業、先端都市産業、それにイノベーション金融および文化・観光の二大サービス業を加えたもの、つまり[4+2]という位置づけがなされています。珠江デルタにある5つの国際空港と5つの国際港湾に、ここから1時間以内にアクセスできるという地の利もあります。筆者が最も関心を寄せたのは現在建設中の“深中通道(別名:深中大橋)”でした。珠江河口を東西に跨ぎ、深圳市と中山市を直接つなぐ全長24キロの道路、深圳に近い東側の一部は海底トンネル(約7.1キロ)、中山までの西側は橋梁部分(約16.9キロ)、片側4車線、双方向8車線の高速道路で、2024年に完成し開通の予定。現在、中山から深圳へは広州経由で湾岸沿いで2時間かかるところ、この道路ができると30分で到達します。そうなれば、翠亨新区は深圳・香港地区の先端産業と優れた要素を珠江デルタ西岸の後背地へ受け渡すための橋頭堡になるでしょう。
続いて訪れたのは「哈工大機器人(ハルビン工業大学ロボット)」展示館。哈工大機器人グループは、黒竜江省政府、ハルビン市政府、ハルビン工業大学が共同出資して設立されたハイテク企業で、ハルビンの本社のほかに、各地に5つの基地(天津、合肥、蘇州、中山、成都)、11の業務センター(北京、重慶、上海、深圳、西安、馬鞍山、南寧、昆明、広州、武漢、長沙)が設けられています。工業用ロボット、サービスロボット、特殊ロボット、テーマパーク、景勝地などの開発、文化観光関連ハイテク設備開発、AIクラウドロボットなどの技術移転、コンサルティング、技術サービスといった業務を手広く展開しています。われわれが訪れた展示館では主に医療関連の機器設備、なかでもリハビリ、介護に関するものが展示されていて、最も力を注いでいる製品として、AIけいついリハビリロボット総合システムと脊椎リハビリロボット総合システムがあり、医者の診断結果に基づいて標準リハビリ治療プランを自動的に作ることができます。
正午前に順徳へ移動し、昼食を済ませた後、広東四大名園のうちの「清暉園」と「餘蔭山房」を続けて見て回りました。ちなみに、広東四大名園というのは順徳の「清暉園」、佛山の「梁園」、東莞の「可園」、番禺の「餘蔭山房」であります。まず、「清暉園」についてですが、明の万暦35年(1607年)に順徳は杏壇鎮の人、黄士俊が皇帝臨席のもとで行われる科挙の最終試験で状元*に受かり、出世して礼部尚書・大学士までに登り詰め、そして、天啓元年(1621年)に順徳城南門外で黄家祠および天章閣、霊阿之閣を建てました。後に黄家は没落して、庭園は荒廃してしまいました。下って清の乾隆年間(1711~1799年)、大良の進士*龍応時がこの旧跡を買い取り、修築拡張し、草花などを植えて次第に形を整えていきました。その子孫らもさらに手を加え、いくつもの庭園を付け足し、「清暉園」と称するようになりました。抗日戦争期間、龍氏の人々は海外へ避難移住し、庭園は日増しに 傷むままになってしまいました。1959年以後、広東省党委員会から重点保護を指示され、予算が付けられて修復が行われ続けました。いまでは、派手さをひかえ典雅の趣に満ちた敷地面積2万平米余りの大きな庭園となっています。園内の建物の数はおびただしく、亭、榭、庁、堂、軒、館、楼、閣、廊、舫など中国古典庭園のさまざまな形式を一つに集め、それぞれの用途の違いによって異なった風情を醸し出しています。花木の配置の面でも、園内の花卉・果樹は百種を上回り、そのうち銀杏、沙柳、(紫)藤、龍眼、水松といった古木は樹齢百年を優に超えています。筆者が最も関心を寄せたのは窓であります。園内の仕切り壁にはめられた窓、陶芸品をはめた飾り窓、波形の花壁に開けられた窓、壁体に空洞をなしてなお装飾の趣のある洞窓、建物の壁に開けられて木枠で固定された花窓、さらには扉と窓が一体となった屏門といった風に、形や様式が実に多様であり、見飽きることがありません。さらに、窓格子はそれぞれに異なった図案で構成されており、象嵌の材料としては清代の彩色ガラスが多量に使われ、古典庭園では稀にみる風格をたたえています。ステンドグラスとは趣を異にしていると、筆者には感じられました。
広州市番禺区にある「餘蔭山房」は、建設に5年ほどかかり清の同治10年(1871年)に竣工したもので、150年近くの歴史を刻んでいます。敷地面積1600平米弱と四大名園のうちで最も小さいが、小といえども作りは精緻を極め、しかも元の姿を最もよく今に残しています。山房の主人は鄔彬、清の挙人、刑部主事に任ぜられ、後に咸豊帝から通奉大夫を授けられました。その二人の息子も挙人であったため、“一門三挙人、父子同登科”と言われました。その後、隠居のために建てた山房に、先祖から蒙る福蔭(福のお蔭)を記念し、またそれが子孫にまで潤うよう期待を込めて、“餘蔭”の二文字をこの山房に名付けました。正門は本来南側にあり、そこを入って見える二の門の両脇には「餘地三弓紅雨足 蔭天一角緑雲深」という対聯が掲げられており、上聯、下聯それぞれの頭の一字に餘と蔭が充てられています。昔、弓は箭(矢)に通じ、一箭の地は百歩の距離に喩えられ、従って三弓は三百歩の距離、庭園の小ささを指しています。“紅雨”は餘蔭園内の四季折々の花々や果物が絶えないことを暗に指しています。下の聯は園内の樹木が緑の蔭をなしている環境を細やかに表現しています。また、上聯の“足(たる)”の字および下聯の“深(ふかし)”の字は、老いを機に“帰りなんいざ 田園に”という主人の心情を吐露したものであります。われわれ一行は北門から入り、すぐ右手にある“文昌苑”の一角を見て回ることにしました。苑内の目玉は“文昌飛閣”と池をはさんで相望む“掛榜青山”。文昌飛閣は高さ15.4メートル、八角形を呈し、外からは四層に見えて中は三層構造になっていて、天井には人物、花卉、鳥獣、山水などの絵画や彫刻が施されています。文昌閣に続く南向き及び東向きの二本の回廊の天井にも、番禺地方の風情に満ちた彩色の絵や昔話の連環画がびっしりと描かれていました。筆者は幼少のころに聴かされた“お話”の一つや二つぐらい見つかるのではないかと、天井を仰ぎ見ながら回廊の下を歩き回りましたが、首が痛くなってヤメにしました。“掛榜青山”は高さ8メートルほどの築山で、小径、洞窟、石崖、絶壁、滝や泉などが設えられ、中を通ることも登ることもできます。文昌閣からこれを眺めると、その名の通り、試験合格発表の掲示板が建っているように見え、読書人は必ずここを訪れては目の前の“金榜”にあたかも自分の名前が載っているかのように夢想?妄想?するのだそうであります。時間がなくて多くを見ることができなかったのも残念の一つ。(つづく)

訂正:前号:海天醤油廠の露天仕込み場の面積は正しくは60万平米。

清暉園の飾り窓

横浜広東系華僑の葬送文化考
――母の葬送を振り返って
横浜華僑総会 副会長朱銘江

人生のいろいろな場面でだれもがかかわりを持つ「冠婚葬祭」のもろもろの行事、これを中国語では「冠婚喪祭」とも言いますが、中華文化では人生の節目に出くわすこれら「四礼(四つの儀礼)」、すなわち「冠礼(成人)」、「婚礼」、「喪礼(葬儀)」と「祭礼(祭祀)」をとても大切にしてきました。
この「四礼」は儒教文化の伝播により朝鮮半島、日本、琉球、越南などにも伝わり、それぞれの地域で独自の発展を遂げています。
もっとも、現代中国語では「冠婚葬祭」というよりも、めでたい行事とお弔いの行事を総称して「紅白喜事」と呼ぶことの方が一般的です。
さて、「冠婚葬祭」で最も難儀なのが「葬」、つまり「白事(葬祭)にかかわる部分だと思います。
殊に近親者の死はそうそうにあるものではなく、ときにそれは突然やってきます。
筆者も14年前に父を亡くしました。当時、葬儀においては横浜の広東系華僑が幾世代にもわたり伝承してきたもろもろのしきたりをできる限り忠実に再現しました。
そして、先日母が91歳で天寿を全うしましたが、新型コロナウイルスの蔓延拡大が懸念され、いろいろと制約のある中、やはり伝統を継承した葬儀を出すべく工夫し、人生二度目の孝男(喪主)を務めました。
ただ、伝統継承を標榜するも、実際には数十年前に見聞した祖母の葬儀の際のしきたりを手本とし、その所作のまね事に過ぎないのではないかとのそしりは免れませんが、それは少しでも中国人、広東人らしく送り出してあげたいとの思いによるものにほかなりません。

寿衣
去る6月29日の昼、母危篤の一報を受け、ただちに病院へ駆けつけました。しかし、速やかに病室に通されることはなく、しばらく待合室で待たされ、病室に案内されたころにはすでに母の意識はなく、最期の看取りの瞬間を迎えていました。
そして、弟とその家族ら全員がそろったころを見計らって、主治医が病室にやってきて、死亡確認の基本動作である瞳孔の開き具合と腕の脈を測り、午後2時15分、母の死が正式に宣告されました。家族が遺族になった瞬間です。
母の体にはいろいろな管がまだ繋がれたまま、その亡き骸を目の前にし、悲しみが一気に噴き出した思いがしました。
その後、看護師さんが着衣を着替えさせてくれました。
母に着せた旅立ちの装束は、十数年前に私の弟の結婚式の際に着用したブルーのチャイナドレスでした。
遺体に着せる装束を中国では「寿衣」と呼びます。中日辞典などを見ると「寿衣」を「経帷子(きょうかたびら)」と訳すものがあります。いずれも死者に着せる着物を指すことばです。
古来、中国では男性には黄や青、女性用には紅いものが多く高級織物で作ったりっぱなものもあり、長寿を願い生前に用意しておく風習もあったようです。
チャイナドレスの「寿衣」を身にまとった母の姿に看護師さんらも興味津々の様子でした。

入殮
「寿衣」をまとい、身支度を整えたのち、しばらくして手配していた葬儀社の迎えの寝台車が病院に到着しました。
青い布をかぶせられた母の亡き骸はストレッチャーに乗せられ、病院の霊安室はスルーし、直接寝台車に載せられ中華街の葬儀社へと搬送されました。
通夜、葬儀・告別式の会場は父の時と同じく山下町の廣東會舘に決めていましたが、火葬場の都合で、通夜・葬儀のスケジュールがほぼ一週間先の段取りになってしまいました。
そのため、葬儀社で遺体を仮安置することになり、通夜までの期間は毎日時間を決めてお参りに行きました。
納棺式は、遺体が葬儀社に搬送された三日後の午前に執り行なわれました。
この遺体を棺に移す納棺の儀式を中国語では「入殮」といいます。
ちなみに2008年に公開された俳優の本木雅弘さんが主演した日本映画「おくりびと」の中国でのタイトルは《入殮師》といいます。(香港では《禮儀師之奏鳴曲》、台湾では《送行者:禮儀師的樂章》。)
さて、広東系華僑の習わしに従い、納棺に際し棺の内側の故人の背中が当たる部分には一面に金銀の紙錢を敷き詰めました。
また、故人の両足の靴の裏にも金銀の紙錢が貼られました。これらはいずれも故人があの世でお金に困らないようにとの願いが込められた一種のおまじないのようなものです。
棺の内部の準備が整い、ストレッチャーに横たわる母の遺体は、家族と集まってくれた親類縁者の手によりゆっくりと棺に納められました。その際に故人が生前好んで着ていた衣服や愛用していた品々も併せて棺に納められました。
そして、広東系華僑の間では故人の卑属の女子から布団に見立てた布を故人に被せてあげる習慣があります。この布のことを「子孫被」と言いますが、今回も故人の次男の嫁と孫娘からそれぞれ贈られた「子孫被」が母に掛けられました。
その後、いったん棺の蓋は閉じられ、棺内の温度を一定に保つため、この日から葬儀が営まれるまでの間、棺の蓋の上に開けられた小窓から「遺容(死に顔)を拝むようになります。

夜明珠
中国では死者の口に真珠などの宝物を含ませる風習があります。言い伝えによると、かの西太后が臨終に際し口に含んだのが「夜明珠」という緑色に輝く珠であったとの伝説があります。これは「圧舌」という古来の風習で、一説では宝石や真珠などの貴重なものを口に含むことにより、あの世では口を慎み、早く輪廻転生することができるようにとの願いが込められているとも言われます。
また、この夜明珠の放つ光はあの世へ至る道を照らし、すみやかにに天国へたどり着くことができますようにとの願いも込められているようです。
旅立ちの道を明るく照らし、やすらかに成仏できるようにと、納棺を済ませた母の唇にもひと粒の真珠を含ませてあげました。

孝服
孝服とは服喪中の家族が着る喪服のことです。伝統的には「披麻帯孝」の言葉で示される通り、白い麻の服を着て喪に服することをさし、これを「戴孝(帯孝)」と言います。
喪服というと今では黒い装束が一般的ですが、弔いの場に黒一色の服装の人々が集まると、遺族と弔問客の区別がつきにくくなります。
その点、広東系のしきたりでは遺族は、服喪中であることのしるしに白い腰ひもを縛るので、一目で遺族が誰であるかがわかります。
白い腰ひもを縛るスタイルはすでに「披麻帯孝」の簡略版で、以前は白い麻布でできた防災頭巾のようなものを被ることもありました。
喪に服す期間もだいぶ簡略化され、いまでは四十九日をもって忌明けとすることがほとんどですが、忌明けのことを中国語では「脱孝」、「除服」といい、これを機に喪服を脱ぎ去り、この腰に巻いていた白い腰ひもを取り去り日常の生活へと戻ります。

守夜
「守夜」とはいわゆる通夜のことです。仏式の通夜の儀式では僧侶に読経をあげてもらい、故人を冥土へと導いていただきます。
十数年前までは中華街には中国のお坊さんがいらっしゃって、抑揚頓挫の効いた中国語の読経は、なかなか聞き応えがあるものだったと記憶しています。
しかし、今はもう中華街には中国のお坊さんはいないので、今回は葬儀社の手配してくれた日本のお坊さんに通夜から葬儀・告別式、さらには火葬場、中華義莊に至るまでそれぞれの場面での読経をお願いしました。
 通夜の読経が葬儀場にこだまするなか、冥土で故人が困らないようにとの願いを込め、孫たちが数日にわたり心を込めて折ったたくさんの金銀の紙錢を火中にくべました。
また、金銀の紙錢は古代のお金に似せた「金元寶」の形に折られたほか、数十枚の金銀の紙錢を使って折り上げた手の込んだ蓮の花もたくさん作られました。これらは霊前に供えられ、翌日の葬儀の際に焚き上げられました。
その昔、中華街での守夜「通夜」は文字通り夜通しでした。弔問客はにぎやかに麻雀台を囲み、夜が明けるまでワイワイと故人を偲んだものですが、いまではそのような光景はほぼ見られなくなりました。
また、広東系の葬家の通夜で、通夜振る舞いの席には必ずお粥が供されました。いつ頃から始まった風習かはわかりませんが、きっと物資が乏しい時代から続くものだと想像します。
葬家が会葬者に対して感謝の気持ちを伝えるために、一杯の温かいお粥を差し上げることで、人々の悲しい気持ちを癒してくれたのでしょう。
四十数年前に祖母が亡くなった際、通夜に向け父が大釜で鶏粥を炊いていたことが今でも思い出されます。
今回、母の通夜にあたっては、弔問にいらした方々の「三密」を避けるため、通夜振る舞いの席は用意できませんでしたが、この広東系華僑のしきたりを伝承する意味合いでお粥のレトルトパックを含む返礼品を用意させて頂きました。

吉儀
広東系の葬家では、守夜に来て下さった弔問客に「吉儀」という返礼をします。具体的にはポチ袋に入れた百円玉と飴玉を指します。その昔、数十年前に祖母が亡くなった時は、紅い紙にくるまれた十円玉と飴玉でした。
香港などでは「吉儀」の文字が印刷された小さな紙袋に1粒の飴玉、1香港ドルコインとティッシュが一枚入っているそうです。
飴玉は悲しみを和らげるため、コインは帰りの交通費の足しにしてもらうため、または甘いキャンディなどを買うため、ティッシュは涙を拭うためだとか。いずれにせよ、飴玉とコインの二点は葬祭場をあとにしたら速やかに「処分」し、家には持ち帰らないのがしきたりなのだそうです。

叩頭礼
叩頭礼とは両膝を地面につけ、両手を地面に置いて、さらに額を地面につける最上級の儀礼を言います。
叩頭礼の最たるものは三跪九叩頭の礼といい、かつて封建時代においては、皇帝に対して臣下が行う忠誠と尊敬の念を表す儀礼のことを指しました。
通夜と葬儀・告別式で、私も亡き母の霊前に跪き、叩頭礼を捧げ、その冥福を祈りました。

出殯
「出殯」とは告別式を終え出棺すること言います。また、「挙殯」とも言います。
7月7日午前、母の葬儀・告別式が行われました。
いよいよ最後のお別れの時の到来です。
僧侶による故人の成仏を導く読経が終わると、祭壇前におかれた棺は葬儀場の中央に移され、数日ぶりに棺の蓋が開かれ、母との最後のお別れの時を迎えました。
生前故人の好物であったアップルパイと、さつま芋とかぼちゃの天ぷらがのった日本そばや、端午節に贈られた広東粽と生前お見舞い頂いた広東式の炊き込みスープもあわせて棺に納めさせてもらいました。
葬儀・告別式が滞りなく終了すると棺は火葬場に移送することになりますが、出棺までには近親者らによって最後のお別れの行う時間が設けられています。
このお別れの儀式では、祭壇に飾られたたくさんの色とりどりの生花を遺族と会葬者らひとりひとりが棺の中に手向けていきます。この棺に入れる花またはこの一連の儀式のことを日本では「別れ花」と呼ぶそうです。
これは日本にて発祥した風習が広まったものと思われますが、中華街で行われる華僑の葬儀でもかなりの昔から一般的に定着している儀式です。

哀楽
「別れ花」の儀式が粛々と進むなか、葬儀場内には中国の代表的な葬送曲である「哀楽」の荘厳な調べが鳴り響きました。
「哀楽」の二文字を見ると「喜怒哀楽」という四字熟語を連想しますが、この「哀楽」の「楽」は音楽のことで、「哀しみの音楽」、つまり「葬送曲」という意味になります。
ゆったりとした悠然とした調べに、ところどころにパンチのある抑揚を効かせた曲調の「哀楽」、その音色は悲しみを乗り越えようとする遺族の気持ちと、故人の冥福を祈り、その在りし日の姿を思い偲ぶ会葬者の心情を見事に表現している楽曲だと思います。
この「哀楽」は、1940年代に総政軍楽団の初代団長であった羅浪氏が収集した中国北方の民間音楽がベースになっているそうです。チャルメラなどの民族楽器を使って奏でられていた葬送の調べを編曲し、1945年張家口にて行われた戦場に散った烈士を悼む追悼会で初めて演奏され、その後1949年9月30日、天安門広場で行われた人民英雄記念碑の起工式に際し、正式に「国家葬礼楽曲」に制定されました。
じらい中国では、国家指導者から一般の民衆に至るあらゆる階層の人々を見送る際の葬送の曲として使われている曲です。
そして、この「哀楽」は中国ではだれもが馴染みがあるものの、あえて聞きたくは無い楽曲となりました。

撒溪錢
「別れ花」の儀式を終え、棺の蓋が閉じられるといよいよ出棺になります。僧侶の読経に先導され、棺は親類縁者の男手により霊柩車へ運ばれました。
余談になりますが、霊柩車と言えば、我々の世代では宮殿のような屋根を載せた「宮型霊柩車」を思い浮かべますが、葬儀社の方によると、現在「宮型霊柩車」は神奈川県内に一台しかなく、いまでは霊柩車のほとんどが洋型の車輛になっているとのことでした。
今回、母の旅立ちには洋型の国産車輛が使われました。
喪主であるわたしは故人の白木の位牌を胸に抱え、式場である廣東式場の玄関から溪錢を撒きながら霊柩車に向かいました。13年前に父を見送った時以来、人生二度目の霊柩車同乗体験です。
この「溪錢」とは紙錢の一種で、約20㎝×約5㎝幅のアイボリーホワイトの薄紙に銭型がたくさん打ち込んであるデザインが施されている「札束」です。
霊柩車が火葬場へと向かう道中、この「溪錢」を撒き続けるのです。
これは「買路錢」とも呼ばれ、野辺送りの道すがらにたむろする魑魅魍魎たちにさしあげるお金で、道中邪魔されず順調に目的地へたどり着くようにとの願いが込められています。 まさに「地獄の沙汰も金次第」を地で行くお話です。

火化
「火化」とは火葬のことです。火葬場のことを中国語では「火化場」ともいいます。今回母は西区元久保町にある久保山斎場の一号炉で荼毘に付されました。
棺が炉に納められ、約一時間で骨上げとなります。
火葬が終わった後、参列者全員で遺骨を拾うことを「骨上げ」といいます。故人と縁深い順に2人1組になり、箸で遺骨を拾い上げて骨壺に納めるのが現在行われている最も一般的なやり方です。
この二人でひとつの骨を拾う作法には、故人が三途の川を渡るときの「橋渡し」をするという意味合いがこめられているのだそうです。
このスタイルの骨上げの習慣は日本独自のもので、他の国では見かけないようです。
実際、中国語で遺骨のことは一般的に「骨灰」と言い、火葬後粉々に粉砕され、粉末状になった遺灰が遺族に返されます。
そして骨壺にあたるのが「骨灰盒」で、陶器や石材で出来た骨壺もありますが、多くの場合はきれいな細工の施された木製の四角い箱になります。
数十年まえの煙突があった古い久保山斎場と、ホテルのような近代的なビルに建て替えられ、とてもきれいになったいまの久保山斎場とでは、そのおもむきもだいぶ変わりました。何度も来たことがあるところですが、このような場所はやはりまた来たいとは思えないところです。
火葬場は人生の最終段階に誰もがお世話になるところ、そこでサービスを提供しているすべての方々に敬意を表したいと思います。

入土為安
中国に「入土為安」という言葉があります。
これは人が亡くなってお墓に埋葬されることは故人にとって最大の慰めであり、極楽往生できるという意味です。
今回、荼毘に付された母の遺骨は、火葬場から中華義莊へ移され、父の眠る朱家之墓に納められました。
7月7日の午後二時過ぎ、久保山斎場から中華義莊に到着しました。
まずは地藏王廟本堂の祭壇前に遺骨を安置し、線香とろうそくをあげ地藏王菩薩さまに母の入山の報を伝え到着を告げました。
そして、手配していた石材店の方の手を借り、14年ぶりに朱家之墓の蓋が開かれ、母の骨壺を父の骨壺の隣に納めてもらいました。
前夜の通夜から始まり、当日の葬儀・告別式、火葬場と同行してくださった僧侶には中華義莊までお付き合いしていただき、納骨を済ませた墓前でもお経をあげていただきました。
お墓の蓋が再び閉じられ、母はここに永眠しました。
そして、母の「入土為安」を祝して墓前にて邪気を払う爆竹を豪快に鳴らしました。
近年では多くの場合、四十九日まで自宅で遺骨を祀り、その後埋葬することが多いようですが、今回はあえてその方式を取らずに火葬した当日に埋葬まで済ませる方式を取りました。
故人の「入土為安」を願うとともに、「三密回避」が求められるこの「新たな日常」において、親類縁者らに四十九日だの、納骨だの祭祀の度に負担を掛けたくないとの思いもありました。

牛頭馬面
広東系の葬家では服喪期間中に様々な禁忌があります。やってはならないとされるいろいろな約束事です。
飲食において遺族が注意すべき事柄が一つあります。特に四十九日が過ぎるまで、つまり個人が成仏するまでは牛肉・馬肉を食べてはならないというものです。
「牛頭馬面」は「牛頭」と「馬面」という二種類の怪物をまとめて呼ぶときの呼称で、仏教に由来する地獄で獄卒をしているという獣人、牛頭鬼と馬頭鬼のことを言います。
故人が無事に成仏するようにとの願いを込め、服喪中に牛肉や馬肉を食べないのは、「牛頭馬面」をリスペクトするためです。
厳格なしきたりを守る家では、喪が明けるまでの食事は精進料理が主体となりますが、いまではほとんどなくなりました。

解穢酒と纓紅宴
「解穢酒」は服喪中に行われる会食の宴席で、一般的にはやはり質素な精進料理のメニューが主に並び、文字通り「穢れを払うための会食」を指します。
一方、「纓紅宴」は忌明けの宴席で、不幸な事は過ぎ去り、これからはおめでたい事がやってくるようにとの願いを込められた会食です。「纓紅」とは紅いリボンの事。
「纓紅宴」に参加した人には葬家から「纓紅利是」という赤い糸が入った「紅包」が配られます。これは通夜の際にもらう「吉儀」とは違い、家に持ち帰る前に「処分」する必要はなく、大事にお守りとして取っておくことができます。
前段でも触れましたが、これらの日本で言う精進落としにあたる「解穢酒」や「纓紅宴」の席上では当然に牛肉や馬肉を使った料理は供されることはありません。

擇日
擇日(択日)とは暦(こよみ)を用いて日取りと時間を選ぶことです。冠婚葬祭の執り行う際に「擇日」はとても大事なウエイトを占めていましたが、いまでは伝統的な広東系家庭でも「擇日」にこだわることはほとんどなくなってしまいました。
こと葬儀においては、きわめて日本的な「友引」を避けることの方が一般的になってしまったきらいがあります。
昔は「通勝」という広東の暦を用いて、葬儀にかかわるすべての儀式の予定が決められていました。
故人の亡くなった日時と時刻、さらには喪主以下すべての家族メンバーの干支とを照らし合わせ、「通勝」を用いて、葬儀の日取りやそれぞれの儀式の時間などの段取りが綿密に計算されるのです。
「通勝」は本来「通書」または「暦書」とも言い、中国のこよみを指す言葉です。
なぜ、「通書」のことを「通勝」と言うのか。これは縁起を担ぐことが大好きな広東人の性格を顕著に表していることによります。
なぜならば、「通書」の「書」が負けを意味する「輸」の字と同音だからです。ですから、あえて逆の「ビクトリー」を意味する「勝」の字をあてて、広東人はこよみのことを「通勝」と言います。
昔は葬儀にかかわる重要な儀式である納棺、通夜、出棺、火葬などなどの時刻が厳密に算出され、それにあわせてそれぞれの儀式が粛々と進められていました。
ですから、昔の葬儀屋さんは中国人、殊に広東系葬家のさまざまなリクエストに応えなければならなかった分、今よりも大変だったと思います。
今日、中華街でも「通勝」を読み解くことができる人がほとんどいなくなってしまったので、葬儀にかかわる一連のタイムスケジュールはすべて葬儀屋さんが主導するようになってしまいました。

相冲
「相冲」とは陰陽五行における相性の悪いことをさしますが、「擇日」と合わせ葬送の場面では故人と遺族、ひいては故人と会葬者との間でこの「相冲」関係がとても重視されていました。
これも故人の干支と遺族や会葬者の干支が関係し、「通勝」を用いて綿密に算出されました。殊に葬儀場での最後のお別れの場面で、棺に蓋をする際に故人と「相冲」関係にある干支の者はその場面を見てはいけないとされ、棺に背を向けることが求められました。
昔の中華街での葬儀では、葬儀場の入り口付近に白い紙で、お別れの場面に立ち会ってはいけない人の干支が書かれていて、会葬者はそれを気にしていたものです。

回魂
「回魂」とは天国へたどり着く前に亡くなった人の魂が家に帰ってくることを言います。回魂の日取りと時間は故人の亡くなった日時に基づき算出されます。さらに魂がどの方角から帰って来るかも計算され、帰って来る時刻に合わせて家族はその方角の扉や窓を開けておく必要があります。
回魂に合わせ、遺族は故人の好きだった食べ物などのお供え物を二セット用意します。一つは故人に捧げるもの、もう一つは故人に付き添ってやって来るあの世からの使者に差し上げるものです。
回魂の際、故人の意にそぐわないことがあったりすると、茶碗が割れたり、物が棚から落ちたりといった「超常現象」が現れると言われています。
いまではこの回魂の儀式を執り行うこともほとんどなくなりました。

七七
「七七」とは中国語で「四十九日」のことを指します。
葬儀終了後は家に「後飾り」の小さな祭壇が設けられ、四十九日を迎えるまで祭祀が続けられます。
その際、「後飾り」の祭壇に置かれる故人のための香炉の脇に、もう一つ小さな香炉を設けます。これはあの世まで故人に付き添う霊界からやってきた使者のためのものです。
故人の香炉に線香をあげる際には、同時にこの小さな香炉にも線香をあげます。
また、四十九日までの間、家に「神台(神棚)」が祀ってある場合は、「紅紙遮位」と言い紅い紙の紅い面を内側にして「神台」を覆い隠します。これはまだ成仏する過程にある故人の魂と、祀られている神々や先祖などの神明とを遮断し、お互いを驚かさないためだとされます。
日本では「初七日」と「四十九日」が重視されますが、伝統的に広東系華僑の間では「初七」「三七」「五七」「七七」という具合に奇数回の七日目に祭祀を行い、これを「做七」といいます。
特に故人に娘がいる場合、「三七」はその娘が主体のなり祭祀を行います。

上高
「上高」とは、故人が成仏し先祖の仲間入りすることを言います。
以前は「上高」の日時も「通勝」を見て厳格に算出され行われていましたが、いまではほとんどの場合「四十九日」に「後飾り」を取り払い、故人の魂を、先祖を祀る「神台」に合祀する際に行います。
具体的には、「神台」を覆っていた「紅紙遮位」の紅い紙をはがし、後飾りの祭壇から「神台」に至るまでの距離に紅いリボンを渡し、そのリボンの上を後飾りの祭壇から「神台」に遺影又は位牌をゆっくりと移動させ、故人はご先祖さまの仲間入りを果たします。
また、後飾りの祭壇で使っていた故人の香炉の一部の灰を「神台」の先祖の香炉に移します。これを「合炉」と言い、こうして故人はご先祖さまになるわけです。

まとめ
納骨を済ませ、「四十九日」も過ぎれば、一連の儀式は一区切りとなります。
「冠婚葬祭(紅白喜事)」、特に葬祭には、地域や伝統に乗っ取ったさまざまな風習があり、中にはいろいろな禁忌が含まれます。
横浜の広東華僑が伝承してきた葬祭のしきたりもそれらを厳格に守ることはもはや現実的ではなく、現代のライフスタイルに合わせて適宜取捨されているのが現状でしょう。
冒頭でも触れましたが、中国人らしく、広東人らしく母を見送りたい思いはありますが、現実にはできることとできないことがあり、できることをしてあげられれば、故人への供養になるのではないでしょうか。
広東式とは言いますが、実際には仏教、道教の要素と日本のしきたりが混然一体となり、弔いの形が形成されている気がします。
冠婚葬祭のとらえ方はさまざまです。
どのようなかたちであれ、真心をもって弔うことで故人を偲ぶことができるのではないでしょうか。
拙文に「横浜広東系華僑の葬送文化考」というたいそうなタイトルを付けました。「葬送文化」を語るとは「縁起でもない」という向きもおありでしょうけど、この度の母の葬送を通して横浜の広東系の華僑が代々伝承してきた葬祭のしきたりを自分なりにまとめたまでです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
大家有心。

華文教育の「新たな100年」を目指して
2021年度小学一年生 児童募集要項

=出願資格=
2014年(平成26年)4月2日~2015年(平成27年)4月1日に出生した者
※日本国籍以外の児童は永住もしくは中長期在留資格者に限る。

=募集人数=
76名

=オンライン学校説明会=
第一回 7月11日 終了
第二回 9月5日(土)10:00より(要申込)
URL→ https://bit.ly/2UXc2xv
8月24日申込開始
※今年度のオープンスクールは中止とさせていただきます。

=出願日=
2020年9月9日(水)、10日(木)10:00〜14:00

=出願書類ダウンロード=
2020年7月1日(水)~2020年9月10日(木)
https://bit.ly/2YeKzJO

=出願手続=
下記書類を直接本校に提出してください。郵送では受け付けません。
1 入学願書、受験票各1通。
2 提出資料:住民票等(詳細は出願書類をご参照ください)
3 受験料1万円 (振込方法、出願書類参照)

=選考日=
総合考査:2020年10月3日(土)
面接:2020年10月5日(月)~15日(木)
※面接日時は学校が指定いたします

=選考内容=
〇 総合考査(ペーパーテスト、運動テスト、行動観察)
〇 受験者と保護者の面接(中国語、日本語どちらでも構いません)

=合格発表=
2020年10月19日(月)本校ホームページにて発表

=入学手続=
2020年10月22日(木)10:00~15:00
本校一階事務室にて

=注意事項=
※期間終了後の手続きは一切お受けできません。
※選考日時に欠席または遅刻された場合は、棄権とみなします。また、テスト内容、結果についてのお問い合わせは一切お受けできませんのでご了承ください。
※各種手続の際に提出されました書類ならびに出願料、入学金は一切返還いたしません。また、個人情報につきましては関係法令を遵守し、選考の目的以外に利用することはありません。

=お問い合わせ=
教務部長兼生徒募集主任 羅順英 生徒募集副主任 苗凌哲
TEL:045-641-0479
Email:bosyu@yycs.jp

※中学一年生徒募集要項
11月1日発表(予定)
(山手中華学校)

婦女会 会員総会開催

6月20日(土)午後2時より当会館3階ホールにて2019年度定時会員総会が31名の会員を集めて開催された。コロナ禍の中で三密を避けるため、窓は全開、座席の間隔を開け、全員マスクを着用し、ドアノブ、手すり、椅子などを消毒し、万全の対策で開会した。初めに李香玳会長が挨拶し、法人化1年来の活動が非常に順調に活発に進められてきたがコロナ感染拡大のため、2月から活動が一部中止され、3月には全面的に中止された旨報告された。その後議長選任、福利部・文化部・総務部・婦寿会がそれぞれ一年来の活動を報告した。その後決算報告、監査報告を承認、2020年度の活動方針案、予算案を承認し議事は終了した。この後、司会より新入会員の紹介があり、潘蘭英副会長より閉会の辞が述べられ会はお開きとなった。
(婦女会文化部)


小紅の会会員総会開催

小紅の会会員総会開催
横浜華僑小紅の会は去る6月26日午後6時30分より、保育園小紅にて2019年度会員総会を開催しました。コロナ感染予防のため、出席者はマスク着用、椅子を離しての着席となりました。
小紅の会会員総数は29名。うち出席者27名(委任状8通を含む)の過半数を得て会は成立しました。
はじめに劉燕雪理事長があいさつに立ち、マスクの寄付が5千枚近く集まったことを感謝し、職員の感染防止対策をしっかり行った結果、自粛期間を含めこの3か月間無事保育運営ができたことが報告されました。
会員総会は2019年度の小紅の会及び保育園小紅の事業報告、決算報告、監査報告は質疑を経て承認され、2020年度の事業計画及び保育計画、予算案の承認を得ました。
また、一部定款の変更も提案どおり承認され会議は8時に閉会しました。
保育園小紅は2017年、認可保育園として横浜山手中華学校1階にて、0歳から2歳の低年齢児保育園として再出発し4年目を迎えました。現在園児数は36名。元気で健康な子どもたちが毎日楽しく、すくすくと育っています。
また、昨年6月より半年にわたって行われた「第三者評価」(第三者機関が客観的な視点から保育園小紅を調査し評価したもの)については、かながわ福祉サービス第三者評価推進機構で公開していますので是非閲覧されてみてください。(小紅)


中国語なう94

气溶胶 qì róng jiāo
意味:エアロゾル

新型コロナウイルス(新型肺炎)の新たな感染経路「エアロゾル感染」が報道されていますが、中国語でこのエアロゾルのことを「气溶胶」と言います。
エアロゾルが感染経路になるとの報道がされるまでは「飛沫感染」が話題の中心でしたが、飛沫感染とは「飛び散る小さい水玉」のことを指すそうです。
もう少し詳しく言うと「5μm以上の大きさの感染病原体を含む粒子」と言う説明になるみたいです。
つまり、めちゃめちゃ小さいウイルス(飛沫核)の周りを覆っている水分全体をまとめて飛沫と言っているわけです。
くしゃみや咳をすると細かい水分が飛び散りますがこれが飛沫で、もしくしゃみした人がウイルスを持っていたらウイルス入りの水分となるわけです。
これを吸い込むことによって感染するのが飛沫感染ということになります。
この飛沫は咳やくしゃみで飛んだとしてもせいぜい1m~2m程で、その後は重みで地面に落ちるのだとか。
飛沫感染する病原体は、風疹ウイルスやインフルエンザ、SARSの原因となったコロナウイルスもこの飛沫感染が原因だと言われています。
飛沫よりも小さいのが「气溶胶(エアロゾル)で、日本エアロゾル学会では、気体中に浮遊する微小な液体または固体の粒子をエアロゾル(aerosol)といい、エアロゾルは,その生成過程の違いから粉塵(dust)、フューム(fume)、ミスト(mist)、煤塵(smokedust)などと呼ばれ、また気象学的には、視程や色の違いなどから、霧(fog)、靄(mist)、煙霧(haze)、スモッグ(smog)などと呼ばれることもあります。エアロゾル粒子の性状は、0.001μm=1nm程度から花粉のような100μm程度まで約5桁にわたる広い範囲が対象となるのだとか。
飛沫より小さくて軽いエアロゾルは、空気中に浮遊する直径が0.001μmから100μmの粒子、ということになります。
新型コロナウイルスに限らず、「气溶胶」にのって漂っているあらゆる病原体は吸い込みたくないですから、外出時や公共交通手段を利用する際は必ずマスクを付けるようにしましょうね。

訃 告

林任㛟枝女士(有限会社明泰行。廣東要明鶴同郷会副会長、廣東會館倶樂部専務理事、横浜山手中華学校33届林偉珊氏、36届林偉亮氏、38届林肖蘭氏御母堂。広東省)におかれましては6月25日逝去されました。
享年84歳。葬儀は廣東会館倶楽部にて執り行われました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

梁慧珍女士(本会副会長、(一社)廣東同郷会副会長、㈻横浜山手中華学園理事、横浜山手中華学校32届朱銘江氏、33届朱銘生氏御母堂。広東省)におかれましては6月29日逝去されました。
享年91歳。葬儀は廣東会館倶楽部にて執り行われました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

準備中

横浜華僑総会

横浜市中区山下町126番地の1 中華大厦

TEL:045-641-8606

TEL:045-641-8606

FAX:045-663-1490