横浜華僑通訊 2010年6月号より抜粋


目次:


世界華僑華人社団大会、北京で開催 任政光会長招かれ参加

華文教育の「新たな100年」を目指して  17

中華学校校友会 バスケクラブ始動

婦女会、会員大会開く

19届、クラス会開催

五月晴れの都心を行く 廣東同郷会がウォーキングの会

新・ハローワークの窓から 19 留学生のアルバイト

投稿 気ままな旅―紹興 2 


世界華僑華人社団大会、北京で開催 任政光会長招かれ参加

 中国国務院僑務弁公室と中国海外交流協会共同主催による「第5届世界華僑華人社団聯誼大会」が5月7日(金)・8日に北京で開催された。大会には世界各地の120の国家と地域で影響力を持つ華僑華人社団の代表と中国国内関連部門の責任者など約600名が参加。横浜華僑総会の任政光会長も招かれ参加した。
 「中国の統一を守ろう―新疆とチベットの歴史と現状」というテーマに、中国政府は、新疆とチベットに対する歴史と現状に対する認識を深め、合わせて分裂勢力・テロ分子が国際社会と華僑華人社会に与える影響に対し、国家の平和的発展と社会の安定を願うとの政策を伝えた。
 国務院僑弁李海峰主任が「携手合作 为建设和谐侨社和谐中国和谐世界做出新贡献」と題して以下のような基調報告を行った。
[報告内容]国僑弁は国外のウィグル族・チベット族など少数民族の僑胞との交流を強化し、漢族と少数民族の僑胞の団結を増進し、少数民族の僑団の責任者を世界的な華僑華人の会議と活動に招待し、祖(籍)国に対する理解を深める支援をする。
 漢族僑胞に対し、各少数民族僑胞の現地僑界の組織の社会・経済・文化・スポーツなどの各活動への参与を促し、共に調和がとれた華僑社会を建設して中華文化の伝承と僑界の幸福を図るよう希望する。
 海外同胞に対し、新疆・チベットが歴史的にも中国から分割することが出来ないという事実を示す資料と今日の変化と発展状況の情報を提供し、居住地政府・メディア・一般市民に国家分裂勢力に対する中国政府の方針と政策の理解と支持に助力していただく。
 国外の少数民族の僑胞が民族文化を発揚することを支持し、高レベルの民族芸術団を海外に派遣し、公演を通じ中華民族の文化宣伝をする。国外の少数民族の子女に母語と中国語の勉強会を催して、祖(籍)国と郷里への感情と理解と増進する。中国駐海外領事館は少数民族の同胞の現地での生活向上に対し、サービス業務の改善を行う。


華文教育の「新たな100年」を目指して  17

中華学校はどのような学校ですか? 小1新入生の父母にインタビューしました


 高橋さん(小学1年生のおかあさん)

■お子様は何年生ですか?

 小学1年生です。

■どうしてお子様を横浜山手中華学校に通わせたいと考えたのですか?

 義母が華僑で本校の卒業生のため、中華学校のアットホームな環境を話で聞いていたり、卒業後の校友生の交流等を間近で見ていたため、地元に密着したいい学校だという印象ををずっと抱いていました。住んでいる場所が日本であることと、夫は日本の学校に通ってしまったり、私自身は日本人であるために日本文化を子どもに伝えることはできるかもしれないけれど、きちんとした中国文化を子どもに伝えることはできないと考えたため、中華学校を子どもの教育の場として選択させていただきました。

■お子様の学校生活の様子はいかがですか?

 毎日楽しく通っています。休み時間に皆でする体操を上級生が「身体が勝手に動いちゃう」みたいにすいすいやっている様子に、子どもながらに感心しているようです。

 毎日の宿題を祖母に聞いたりして一生懸命やっているので、双方にとっていいコミュニケーションの場がさらに増えたと思っています。

■山手中華学校の教育にどのようなことを期待しますか?

 日中友好の架け橋となれるような人材を育成できるような教育を期待しています。アットホームな環境は大事にしつつも、大きなスケールで物事をとらえられる子どもにしていただけたらなあと思っています。

小井さん(小学1年生のおとうさん)

■お子様は何年生ですか?

 小学1年生です。

■どうしてお子様を横浜山手中華学校に通わせたいと考えたのですか?

 数年前に横浜に引っ越した際には、もともと横浜の出身ではないため「横浜山手中華学校」という学校の存在すら知りませんでしたが、その後同校について、基本的には授業はすべて中国語で行われ、日本の学校としてではなく、中国内の学校と同じように中国の文化を学び、また英語教育についても国内の公立学校に比して、より積極的に取り組んでおられるということ、さらに一貫性のあるしつけが実践されているといった旨を人から聞き、以来2番目の子にはぜひ、古の頃より日本に多大な影響をもたらした偉大な中国の学校で学び、国際人としての素養を身に付ける機会に与れればと願っておりましたところ、中国から来られる予定であった方が急きょ来られなくなったということで1人分の空きができ、念願かなって入学許可をいただいた次第です。

■お子様の学校生活の様子はいかがですか?

 毎日大変喜んで通学しております。先日も、入学後2週間ほどたったある日の夕食の際、「ぼく、中華学校に行けてほんとによかったよ。だってすごく楽しいもん。友だちもできたし。」と、息子が自分からそのように言うほどです。また、学校や自宅での毎日の中国語の勉強を楽しみにしていて、自宅でも毎日何度も繰り返して練習しています。必ず北京語が話せるようになると固く信じているらしく、「北京語を覚えたら、広東語も覚えて、その次は英語!」等と欲を申しておりました。中国語で歌を歌う音楽の授業も気に入っているらしく、学校で学んできた中国語の歌を自宅で口ずさんでいることもあります。

 また、入学後すぐに幾人かの友だちができ、それも含めて毎日学校に通うのを楽しみにしています。熱心な先生方にも慣れてきたようで、親としてはひとまずほっとしているところです。

■山手中華学校の教育にどのようなことを期待しますか?

 以前、潘民生校長先生より、「横浜山手中華学校の中学校卒業時に、中国内の大学を受験するレベルの中国語力を身に付けることを目標としています。」との大変心強いお言葉をいただいたことがございます。すでにそうした高いレベルでの中国語教育、ならびに日本の公立高校に引けを取らない日本語教育の実践、更に高学年における積極的な英語教育への取り組みをなさっていますが、単なる言語習得に終始するのではなく、各生徒の中国人あるいは日本人としてのアイデンティティの確立と同時に、中・長期的視野に立った国際関係・経済に貢献する国際人としての資質(協調性・相互理解等)、人格等を兼ね備えた人材の育成と輩出に多大な関心と期待を寄せております。

 潘校長先生以下、先生の皆様方の熱心なお取り組みに心から感謝申し上げます。そして、貴校のますますのご発展と教職員の皆様のご健勝を祈念しております。


中華学校校友会 バスケクラブ始動

 校友会バスケットクラブは5月18日(火)、山手中華学校新校舎で初めて汗を流した。
 第1回となる今回、30人程集まり真新しい体育館でミニゲームを楽しんだ。今後は月数回の活動を予定しより多くの校友生が母校に集まるきっかけになればと考えている。また当日鄭民健さん(41届)から校友会に9個のボールが寄付され、後日感謝状が贈られた。
 (校友会・譚優矢)


婦女会、会員大会開く

 五月晴れに恵まれた5月15日(土)、横浜華僑婦女会(劉燕雪会長)は第57期会員大会を開催しました。大会は第1部、活動・会務・財務・監査報告、第2部を横浜山手中華学校新校舎落成のDVD鑑賞というスケジュールで行いました。出席は78名(委任を含む)。
 大会では、3・8婦女節での講演「老後の過ごし方」でのアンケート集計を基に、今そしてこれからも加速する高齢化を見据えた活動、自立した過ごし方などの意見交換をしました。社会・生活での経験と新たな形を模索し「老後を上手に生きる」を共有できるような会の活動ができればよいと話し合われました。またおやつを堪能し楽しい午後のひとときを過ごしました。
(横浜華僑婦女会文化部)


19届、クラス会開催

 賑わったゴールデンウィークも過ぎた5月9日の日曜日、私たち19届生は馬車道の中華料理店「味雅」にてクラス会を開きました。
 級友が参加し、唐月麗老師・費龍禄老師両名の担任の老師を囲みながら、時間が経つのも忘れて遙か50年以上前にタイムスリップして、過去・現在・未来(老後)とお話がいつまでも続きました。そして全員の健康と3年後の再会を約束して散会となりました。
(横浜中華学校19届・楊穂霞)


五月晴れの都心を行く 廣東同郷会がウォーキングの会
  「浜離宮」にて記念写真に納まる参加者ら
 社団法人廣東同郷会(陸煥鑫会長)は、5月9日(日)、恒例の「都心ウォーキングの会」を催した。五月晴れのこの日、参加者は午前10時前にJR新橋駅前を出発し、港区の「浜離宮」を目指した。
 一行は初夏の日差しを浴びながら「浜離宮」の園内を散策した。ここは江戸時代よりの代表的な大名庭園で、園内には海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変える池や鴨場を中心にした南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別されている。 歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行われ、11代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成したとされる。明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も現在の「浜離宮」となった。
 「浜離宮」を後にした一行は、中央区日本橋浜町の同会会館を目指し、昼ころから同所での飲茶会に臨んだ。 この日の参加者は同会の会員・会友やその家族ら32名で、名園散策と飲茶のランチを楽しんだ。
 廣東同郷会では毎年春と秋に同種の「ウォーキングの会」を催しており、会員以外の広範な僑胞・友人の参加も歓迎している。次回はみなさんもご参加になりませんか?
(廣東同郷会・朱銘江)


新・ハローワークの窓から 19 留学生のアルバイト

  仕事を探す留学生の日本語のレベルを確認するために「今朝は何を食べましたか?」と聞いたときに、「何も食べていません。」という答えが返ってきた。ちくりと胸が痛んだ。
  留学というと、とても成績のいい人が国費や奨学金の給付を受けて行くか、よほど裕福な人が行くものだと思っていたのだが、今は事情が違う。自分の生活費や学費を稼ぎながら勉強している人も多い。アルバイトがみつからないので学費が払えず困っていると訴えてくる。思いつめているので必死である。
  働くといっても、彼らは来日して間がなく日本語が不十分なうえ、年齢が10代後半から20代前半で就労の経験はほとんどない。留学生のアルバイトが許可されているのは週28時間以内。時給900円で月にその時間内で目いっぱい働いても10万円稼げればいいほうであろう。数年前の好景気の日本とは違うのだ。
 日本語学校に通う就学生はもっと大変である。1日に4時間の就労が許されているが、日曜などにまとめて働くことが出来ない。レストランなどの繁忙時間帯のアルバイトを想定しての許可時間数と思われるが、外食産業が不振な今、就学生のアルバイト探しは至難である。授業料や進学予定の大学の入学金など、それらを稼ぐのは並大抵のことではない。
不況は続いている。いままで日本人の希望者が少なく外国人を雇っていた職場に日本人がシフトしてきている。いままで以上に、事業所の要望に合わなければ雇ってもらうことはかなわない。「親切な雇主さんが自分を拾ってくれる」などということはない。義務教育という教育水準がある日本の国では、日本語を自由に操ることができない限りアルバイトは探しにくい。
 だが、そうはいってもおなかは減る、お金は必要だ。雇ってもらえるような人になる、という選択肢に気付いてくれるといいのだが…。悪い道に走らなければいいのだが…。

 ハローワーク横浜    職業相談員   李 艶 薇


投稿 気ままな旅―紹興 2 横浜中華学校8届生 顧 徳 栄
魯迅の咸亨酒店

 紹興は近世に、魯迅や秋瑾ら多くの偉人を輩出した土地である。
 三輪車に咸亨酒店直行を条件にした。三輪車は大通りを過ぎると、細い道に入る、さらに狭い路地に堂々と入っていく、乗っている者は、通行人や壁にぶつかるのではとヒヤヒヤする。20分も走ったら、咸亨酒店の正面に着いた。
 魯迅の作『孔乙己』に出てくる居酒屋だ。まずは、作中にある黄酒、茴香豆(そら豆を塩味で煮た)、臭豆腐の油揚げをとる。酒はかめから茶碗に注がれ、雰囲気たっぷり。
 その時点では、三輪車で直接連れてこられたので、自分たちの周りの状況なぞ知らなかった。しばらくして3人の若者が前の席に座った。3人で黄酒1杯、豆1皿だけとった。空腹だった私たちの卓上のにぎやかさを見て、気が引けたのか、その内の一人は「私たち、ここで3軒目よ、本物はここだったのね。」とつぶやいた。
 私たち夫婦は顔をニコニコさせて聞いていたが、分けのわからないことを言われているので、心は「?」。私たちは、食べ終わって、外に出た。咸亨酒店は通りの後方にあった。その前方は人通りがあってにぎやかだ。通りは、居酒屋、お土産屋など並び、少し歩くと魯迅故居、記念館、三味書屋があった。まもなく、魯迅故居と書かれた立派な正門に出た。つまり、私たちは裏門から入ったわけだ。
 三輪車の人に咸亨酒店直行と念を押したので、1軒ですんだ、さもなければ2軒はまわっただろう。
 魯迅が12歳から17歳まで学んだ三味書屋を見学した。紹興は科挙制度のあった時代、状元、膀眼と合格者を輩出している。この私塾は官立教育機構の役割を果たしていたようだ。ちなみに三味とは読経・読史・読諸子百家をすることである。
 魯迅の作品は、さほど読んでいなくとも、記憶の中の内容に頼り、けっこう雰囲気に浸れる。足の向くまま、気の向くまま、その周辺を歩く。

紹興の昔と今
 翌日、市内から東へ約5キロの東湖にいく。東湖の一面は奇岩絶壁が屹立している。足こぎ舟に乗って、奇岩を見上げ、洞窟をくぐり抜ける。ここは本来青石の山だったが、漢代から採石が続けられ、ついに大半は削り取られ、絶壁となったという。
 東湖を後にして、西南方向の蘭亭に向かった。東晋時代の書家王羲之が永和9年(353年)に書いた『蘭亭の序』の故事はこの蘭亭で始まる。園内の標札には、越王が蘭の花を植えたといわれ、漢代に入って、ここに駅亭が置かれ、その地の蘭から蘭亭と名づけられた、と書かれてあった。気の遠くるような昔の話だが実在していた。歴史を振り返る旅は楽しい。
 私は書とは縁がないのに、雰囲気におされ、これからやる気持ちで『蘭亭集序』のコピーと毛筆を買ってしまった。ところが帰国後も、毛筆はいまだに墨に触れていない。三日坊主よりもっとひどい。
 市内に戻り人力三輪車で、周恩来本籍地、秋瑾・蔡元培らの旧居を訪ねた。夕暮れ時、黒屋根、白壁の下を流れる水郷の街をゆっくりと回った。
 翌日、列車で杭州に向かおうとしたとき、紹興駅を離れると、大きな建築物が視野に入った。聞くと、展示場だという。そのまわりにはモールらしきものもあった。車窓から見るそれは、立派だった。これらの産業の経済規模が黄酒を上回っているのが、納得できる。
 2泊3日の紹興の旅、ガイドブックを持たず、漠然と出かけたが、結構充実していた。
私たちの足は、次の目的地である杭州、千島湖へと向かった。 (結)